今日ある人がいつものように自カプの素晴らしさを空に向けて語っていた
まあそれはいつものことで
他カプをボロクソに貶すこともセットで忘れない人であり、そのカプのことを好きな私は若干閉口しつつもそれでも別にミュートしたりブロックしたりしないのは『彼に彼なりの信念があって、それこそが真であると信じ基づきその清々しさはそれなりのものだから』である
まあたまに窘めたりするけど、度を越してても鍵垢である以上あんまり言うつもりもない
窘めといっても、疑義を呈するにすぎないし
それはいい
今日はまた面白いことを話していたので気になった
「AとBはもうずっと幼馴染なのにその関係性が歪である」
もう少し彼の言を正確に掘り下げると、お互いの意がまともに伝わっていないのにそれが伝わっているかのごとく幼馴染として振る舞っている、それは歪な関係性だと
さて、ここで私は考えた
なるほど確かにそれは歪な気はする
しかし一体なぜ我々はそれを歪だと考えるのか?
歪であるのなら正があるということなのだろうか?
正の関係性とは一体何なのか?
そもそも人と人との関係性に正も不正も可も不可もあるというのか?
あるとするならばそれは何らかの社会的規範、道徳に基づいているという以外に他ならない
しかし百合という二人の関係性を重んじ推戴する遊びにも関わらず、現実社会と照らし合わせた比較の下でそれらを論じるのはどうもおかしいのではないか?
もっと行こう
二人の関係性が、作品世界の社会道徳との間での何らかのズレを持っているというのならそれはそうなるだろう
しかしそれらが提示されていないのに彼女達の関係性を我々が勝手にとやかく言うことになんの意味があるのか?
ここまで言っておいてなんだが
意味はある
なぜなら
作品というものを読み解こうとした場合、読者は読者の価値観以外にそれを解く方法はない
他の価値観を持ってきましたーと言っても結局自分の中で砕いた何かでしかない
でも、果たして現実社会において人と人との正なる関係性というものは提示されているのか?
実は余り……あまりないのである
社会的な役割に応じたそれはある
儒学(教)やキリストやイスラムに寄らなくてもいいし寄ってもよいだろう
あるといえばある
でもそうでない友人や恋人とのそれに正しき関係性などを提示することがあるのだろうか?
ある程度、までで収まり細かいことはなされない
説明できないからだ
あるのか、提示できますか?
友とはこういうものですよ、というのは実は互いの関係性などを示してはおらずそういう友が(自分の成長などにとって)いい友だと言っているに過ぎない
どちらかと言えば、物語や小説などで示されている良さそうな友人関係を正とみなしているに過ぎないのではないか
そうなるとどうなるかと言うと
また彼に登場してもらうわけだが
「送り手が言いたいことを受け手が完全に理解する、一致している理想的な状態が正」
という考えに至るのだろうか?
それは本当に正なのか?
コミュニケーションとは送り手受け手の意思疎通ご完璧であることが正なのだろうか
彼を非難したいわけではないし、それは一つの見方として成立するものなのは間違いない
100言ったら100理解されることを人は求めることもあるだろう
が、本当にそうなのだろうか
(これは、彼がAとBのコミュニケーションに表層には現れない重大な齟齬があると言う論とは喧嘩しないものだ)
(彼が自カプ語りで気持ちよくなってるところを邪魔したのは悪いけどさ)
その場の人間として見るならそうであることが、舞台の外から見たらそうであるとは限らない
ましてや登場人物と読者とで視点が違うなら捉え方も変わるだろう
そしてそれは読者と読者の中でも
私は人と人との関係性を、ディスコミュニケーションがあるからと言って歪だとは思わないようだ
伝わってなくても別に成立してるし、何かのはずみで壊れるものでも成立してるならしてるはずではないか
それが歪であるというのは本人の捉え方の問題であろう
もちろん私もそう思うということは間違いない(彼の説明を受け入れるならば)
さて、それはそうと彼に議論を投げたのは私だけどその瞬間感じたのは
このコミュニケーションは成立してないな……
であった
なぜなら私は普遍的な話をしようとしてるのに、ほのうみに戻そうとした上に議論の余地のないですと提示されたからである
お茶を濁して私は席を立った
彼は自分のことを正ではないと考えているので、「ところであなたのコミュニケーションは正ですかね?」という皮肉は通じない
ちなみに彼は頑張ってイカれたふりをしようとしている極めて正常な人間なので、コミュニケーションが取れないのは単にわがままで逃避しているだけである
取れるときは取れるからね