大きく出たな……?
特に意味はなく、日常的な思索の一環である
怒りがウンターラカンターレとか(怒りを心の原動力にしてはならないとか呟いてた人がいた、心の原動力ってなんだろうかということも考えたがこれは割愛
怒りに呑まれてはならないとか、怒りを無視してはならないとか
そこら辺の話は定期的によくあるやつである
古来より、精神を落ち着かせることが安定的な成果や生活を導くとされてきた
怒りだけでなく、悲しみや喜び、憂いや楽しみ等の感情を制御するということになる
でも制御するというのは、別にそれらの感情を持たない、又は強く持たない能面になる……ということではないはずだ
それなら感情を失った悲しき(殺戮)マシーンが最も素晴らしいということになる、ある意味凄いけどそのすごさはちょっと遠慮したい……
結局怒ってるのを見守るのが人は苦手
これはTwitter上でもあったのだが、怒ってる人がいると周りの人も何か起こりだすと言うやつだ
別に怒ってるのだけではなく、何か楽しそうにしてる人がいたら周りの人は楽しくなったりする
悲しむ人に影響されて悲しむ
突然吐いた子がいたら周りの子ももらってしまう(違うけど違わない
それらと同じようなもんであるのだが、怒りが一番嫌がられるのはなぜか……
多分怒った人は怒鳴りちらすからだと思う
文章の形だったとしても明らかに言葉が激しくきついものになる
無視できないのだ
楽しんでるのも集団になるとかなり無視できない(この場合一緒に楽しむか、楽しんでるのに苛立ち始めるかは分からない)
しかし一人が楽しんでるくらいならまあ気にしなくて済む
でも怒り始めた人が一人いたらその言がやたら目につく
集団になれば最早止められないエネルギーを持つ
精神を強くかきみだされる
この場合人は、そこに混ざるか怒ってるやつから離れるか怒ってるやつらを批判するか、どれかしないと心が持たない
まあ……これ、文章でも似たような手法を取ってるんですよね……
心に訴えるとはかきみだすことでもある(全てではない
本題、理性は感情の反語なの?
やたら話が逸れた
人が持つ感情と言う何かは実に扱いが難しい
実際に持っているようでそれは幻想かもしれないし、自分独自のものと思っても遺伝と経験と環境と社会の中の様々な因子から組み立てられた生態の反応の一種に過ぎないかもしれない
そこら辺は突き詰め始めると中々難しいが、今は感情と言うものが個人に宿ったものだとする
で、よく創作において言われるのは
感情を制御するのが理性
というやつである
まあこれだけ見たら、理性というものは感情をコントロールする何かであり反語的なものではない
むしろ感情から独立したものであるようだ
本能と理性だと反対のように扱われることが多い気はする
本能と感情が並列して比較されることは余り見たことがない
本能と理性とする場合、本能は野生本能(狩猟etc)とか生物的な欲求(三大欲求あたり)を意味して、理性とは論理的思考や後天的に身につけた常識もしくは社会や集団のルールなどが合致するところか
漫画だとエロの方でよくあるやつか……(別に獣人とか訓練された獣でも使えるやつだけど)
この場合やっぱり理性は本能を抑える抑止的なものとして捉えられることが多いか
本能による行為が当該社会において法的倫理的常識的によろしくない(または本来行ってもよいが状況的によくない)というケースで使われることになるだろう
となると、これは元来反対というより抑止の存在である
でも使われ方からして反対を想定されるのは間違いないし、そりゃまあそうよなってなる
(例:水と火は別に有と無のような反対の関係にはないが、使い方から対として捉えられるわけで、今ではそれが対であるとみなすことを誰も異論を唱えない)
と、書いてきたけれど、そもそも理性という言葉が本能に対して作られた言葉であるならそもそも論ずるのがおかしいわけで
その場合使い方も作用のしかたも何も、もとから反対なのである
だから感情と理性の話を
では感情と理性だとどうなのだろうか?
理性とは本能に対する抑止的な立ち位置にいるとは前項で見てみた
あってるかは知らない
この抑止という部分がポイントで、感情から衝動的な(考えなしの)行動に走ることを抑止するものが理性であると考えて使われるの言葉がこの場合の「理性」である
実際のところ、理性とは「社会的常識や集団ルールを破らない方がよいのではないか、迷惑になるし恥ずかしいし」「もう少しじっくり考えてから行動した方がよりよい結果が得られるのではないか」という諸々の行動制御の感情の集合体であると言えなくないか?
それに一言で表したい
そのときに都合よく「理性」という言葉があったので借用してきたと言える
誰が使い始めたかは分からないが、まあしっくり来てる人も多いと思うので別に使うなとかそういうことではない
言葉は変遷する、ら抜き言葉がうんたらかんたらとかも市民権を得れば得た言葉がその瞬間の言葉である(この話は長い年月をかけてようやく浸透し始めた
使われない言葉は使われなくなる
元来それだけのことに過ぎない
「感情」(的な突発行動)の(抑止制御という形で)反対の言葉として「理性」が使われる
と、捉えるのが落としどころだろう
感情とは
どうも人は感情というものが元々人に備わった何かだと勘違いしている節がある
これは、感情は育ちによって芽生えるものであるという考えとも同居しうる
ていうか同時に持ってしまっている
おかしな話だが
だから理性と感情が対になる使われ方をするのかもしれない
つまり、感情は誰もに等しく同じものが備わっていて欲しい……という願望を持っている
というかある程度これを持っていないとおちおち会話もできやしないのだ
これは同じものを見て同じように楽しめるという話ではない
我々は鳩に対して同じような感情を持ち合わせてると思って話しかけることはあるまい
しかし同じ民族……日本人ならば多分同じ感情のメカニズムを心のなかに持ち合わせているはずだと
そう信じて話しかけることの方が多いに違いない
仲良くなって行けば段々違いが見えてくるから、そんなもんやろとなるわけだが……こと、表面的なやり取りを繰り返しているだけではそこに到達しない
表面的なやり取りはどのレベルかなんて規定することはできないが、表面的にやりとりする上で大事なのは共通言語、共通話題、そして共通の感情(心理的構造)を有しているはずだという幻想である
これは同じものを見て同じように楽しめるとかそういう話ではない
楽しむという感情(及びその発露)が一致しているかどうかなのである
ここがずれてると、趣味が合わない以上にずれを感じる
感じたズレに対して、自分がおかしいのだと考えて無理に合わせようとすると変なことになる
本来そういうのは余り合わないはずだったんだが、今の時代はそうもいきゃしない(ていうかお互いに侵食しあっている)
やはり無視できないところまで来ているので、心の平穏の保ち方を人に解かねばならないときが来ているようだ
私にも分からないが、出家するよりよい方法を考えねばならない
どーでもいいけど
怒りをとりわけ悪いものにする意味はない
どんな感情でも呑まれてよいものはない
呑まれるってどういう状況か難しいけど、それは喜びや悲しみ、楽しみですら……だ
感情というのは一度に一つのものしか出せないものではないし、一つの色に決めつけてもならない
これは自他問わずである
染まることはあるだろうしとらわれることもあるだろう、が……関係ないことに飛散させるのはやはり余りよくはないのである