ほのえりは世界を救う

答えは得た――高坂絵里

話したいことは山ほどあるけど②

まとまらない……

 

 

祝辞

昨日、上野氏の東大入学式の祝辞講演が物議を醸していた

色んなスタンスの人間がいるだろうけれど

彼女の言ってることを全文通して読めば、彼女自身が歩んできた道、女性の学業への世間(女性自身を含む)の見方というものが昔と比べれば3ミリはましになったものの未だに非常に厳しいということは少しだけ理解できるので

―私は残念ながら女性ではないので、完全に理解することは未来永劫不可能である―

あの祝辞だけを以て彼女の言説をどうこう言えるものではないと思う

勿論、祝辞として適しているかと言われたら、あの部分だけを切り出したら微妙に見えるところではあるが、全体を見ればそこまでおかしくはない(あくまで祝辞の内容は)

つまり切り出したメディアの方がどうしようもないというわけだが……が、そうなるのは当然分かった上で氏自身は述べていると思われる

そうでないならあそこまで登れん

 

はっきり言ってしまえば、あの場に上野氏を呼んだということはそういう話をすることを期待したためだろうと推測する

つまり、東大の思惑として氏を呼んでその話を入学の祝辞に混ぜ込もうとしたわけだ

だって呼ばれた方だってそう思うではないか、そうでなければ他の人を呼べばよいのだ

専門の話を交えて話すのは当たり前である、仕事である

となれば、呼んだ人が何を思って呼んだのかって話で

ここで考えられるのが、日本医大の例の件である

これに対して自分達はそんなことないよ、ほら入学式に呼んで自由に喋らしてるんだから、というアピールを大いに含んでいるという憶測だ

事実、東大は男女比3:1くらいの比率だったはず(東工大「おっ、なんだなんだ、やるか?」)

東大が行うことには政治的な意味が付与される、これは京大とは異なる点

どうしても最高学府という性質があるからだ

まぁ、そこら辺の関係で呼んだんちゃうかという

 

めんどくさいね、祝辞全文読むやつはひとんどいないし(以前も切り取られて無駄に物議を醸した)

どっちにしろ呼んだらこうなるのは分かってるだろうから、呼んだやつは成功しつつ失敗したと言える

 

いわゆる社会学の捉え方の難しさ

それはそうと上野氏は余りいい人選とは思わない

一つの主張を推し進めていて他の事との整合性が取れていないとされるからだ

言動に矛盾を持ち合わせていない人間がいるとは思わないが、どうしてもそう見えることが多いというのは間違いない

特に弱者救済の立ち位置に立っている「ように」振る舞いながら他の弱者を殴り付けるように見える点が主に一部の層から反発を買っているらしい(余り興味はない)

それもまた、そんなもんではあるやろとも思うところだが影響力が大きく面倒ではある

だからと言って自分の意見を言うべきではないとは言えないところ

ただ専門外(関係がないわけではないが……)のことに軽々しく口出しされるのはどうなのとなるだけだ

 

ジェンダーに関する問題提起についての数々については私の論じれるところではない

が、ここからの話は少し別で、社会学というものの一部は純粋学問として捉えることが難しいという部分だ

 

これは誰もが分かっているが中々声にできない部分である

主義主張が現実社会や環境ルール、そして感情とリンクして行われることが多い

心理学よりも人間の心理に関わっているかもしれない

心理学は心理を解き明かすためのものだが、社会学で心理をファクターとした場合、心理の面についてはあることが前提になる

「あることが前提」というのがある種の仮説に過ぎないのだが、これを証明するかどうかってのが実はそこまで求められないというのがポイントだ

 

そもそも、同じ条件にいる人であっても同じ感情が起きるわけではない

そこまで厳密に話をすることはできないから、あることが前提で話を進めるのである(ないことは証明しづらい)

この点で他の学問とはかなり一線を画すると言える

主語が大きくなってると反発を食いやすい

 

さらに、もう一つの問題は社会に対して問題提起をする際にセンセーショナルに行わなければ始まらないと言うことを理解してる人が多いということだ

純粋に学究を進めた場合、恐らく声を上げるにしても行動を起こすにしてもマイルドな方に舵を切ってしまう

なぜなら、突き詰めれば突き詰めるほど絶対ということは無くなるからだ

果たして主張したいことが起こす影響が、実は別の問題を引き起こすとかそんなことを考え始める

 

しかし、考えても見よう

「こうしたら世の中よくなる!しないのはバカ!前時代的!イエローモンキー!」

「こうしたらもしかしたら悪くなるかもしれないけど、でもよくなる部分が多いと思うからちょっと考えてもらえませんかね……」

どちらの主張に、人は食いつき行動を起こすだろうか?

 

残念ながら後者である

この日記も結構中庸的なことを書いているのだが、食いつきは悪い

人は自分は中庸でありたいと思いながらも、中庸な人間に魅力を感じないのだ

結論を出して欲しいと思う生き物なのである、困ったことに

ある程度親しい人にならそうは思わないだろう、しかしよく知らない人が結論を出さずにいたら「なんかよー分からん、結論ないならどうでもええわ」となる

心に残らないことの方が多いの

 

という訳で、社会学の中でも活動へ関わるものや活動そのものに発展する場合、主張を尖鋭化させてアジテートしないと誰も動かすことができんのである

メディアに顔出ししたり、受けそうなフレーズを編み出したり……

(そんなことはない、という意見はあるだろう)

(その通りだが、その場合何十年とかけて動かせるかどうか分からない山を動かす大変さを少しだけ考慮して欲しい)

(するだけでいい、余り共感すべきではない)

 

その毒を飲んでやってる人たちが、毒にあたって取り返しのつかないところへ行くこともある

 

彼らの言動主張は学問的な、学会承認であるとか検証されたとかそういうものに基づいたものではない

だって絶対的な正解がないから

しかし絶対の正解だと主張しないと話が始まらない

ゆえに、その点が実に難しい

 

学問の全てがいわゆる科学的手法で論理学のもと導かれるものではない

それらは手段であって合わなければ使わないことも当然ある

個人の感情から発するものもまた学問とも言える

しかし……

 

考え抜いて究めるのもよし、途中で実践へ舵を振りきるのもよし

心のままにやればいい

それは、全て自分のために、である

 

問題点

別に政治活動家としてメディア等でコメントをするなら構わないのだが彼らには肩書きがある

それは

【大学教授】

 

この肩書きが強すぎる

正直日本人が最初に解消すべきコンプレックスは「大学教授」という肩書きへの盲信である(尊敬するなとは言っていない)

小学校と中学の教師は奴隷のごとく見る人も多いのに、何でダロネ……

公務員も銀行員も薄れて久しいが……

 

彼らが大学教授であると名乗ると、その人の説がなんだか学術的根拠に基づくものだと思えてしまう

優良誤認状態

まあそりゃ肩書きってそのためのもんだけど……

ところが言ってることは絶対的な答えではない、そんなことは百も承知で喋ってるはずだし、別にそれが悪いわけではない

 

が、「大学教授が学者としてメディアに出ているとは限らない」ということを理解すべきである

ここがある種の不幸とも言える部分なんだが……

 

恐らく「フェミニストの◯◯さんです」と紹介されたら発言に対して別の反応になるだろうし

日本経済新聞」ではなく「我々は経団連の広報紙」とかされたらやっぱり面白くなるだろう

が、そうはならんのです

肩書き大事あるね

自称でも正式でも間違ってなければ強みになるんじゃ

 

願わくは

善に伐る事無く、労を施す事無けん