リカバリーの仕方が特に
トロッコを押して楽しくなってたら、いつの間にか真っ暗になってた
いわゆる思考実験の話である
問題というと、答えがあるとか解決せねばならないとかそういうものに感じる人が多いが
そもそもそういうものではない
問題という言葉が与えるイメージが、多くの日本人にとって実験に繋がり辛い
これが、今回の話のタネの一つである
この世では、様々な避け得ないトレードオフの問題という物が頻繁に起きる
時にそれは人命……人の生活に関わるものであるかもしれず、切り捨てるのは難しいこともあり判断することの困難さを伴う
そういった事案を可能な限り単純化し分かりやすい形にしたのが「トロッコ問題」
この場合は貴方は私はどんな基準からどう判断するだろうかというのを考えてみましょうや
そうすると、それと同じような状況になったとき人がどう考えるのか(自分がどう考えるのか)を知ることができるやん?
基準とは一体何に基づいてるのかねぇ(常識や倫理とはなんなのか)
という話なのだが……
貴様の心も、一緒に連れていく!
どこが震源地かよく分からないが
多分授業で使ったら、子供が「そのまんま放置する」と言って驚いたってやつかな?
イラストがツボだったらしく色んなコラが作られていき
時には爆殺、どっちも引いたり、全滅したり、好きなものに置き換えたり……
なぜかトロッコ問題の批判が出たり、トロッコ問題批判の批判が出たり
余りトロッコ問題とはなにかを理解してない人も多かったり、理解して遊んでる人も多かったり
訳が分からんことになっている
しかしいくつか言えることは
・思考実験は実験であり、その前提を覆すのなら別の話にするしかないということ
・トロッコ問題を答えが出せない問題という話にすり替えて、人に突きつけたり具体的問題に当て込んで話をするのをやめーやということ
後者が特に問題である
どっちを選んでも、殴る理由を作り出せるからだ
そもそも思考実験は話し合うための提示であって、相手の性格診断のためにつかうものではない
ましてや、相手の属性を一意に定めることで扱き下ろしやすくするために使うためのものでもない
大喜利してる人らはともかく
政治的な判断などを前提ちゃぶ台返しして考えてみるべきである、という話にトロッコ問題という言葉を引き合いに出すべきではない
話が違う
第四インターナショナル
しかし、言葉というものは流転する
一朝一夕で、忖度という言葉が悪の用語になったように、だ
トロッコ問題批判もトロッコ問題批判批判も、あることに触れないことにしている
それは、「トロッコ問題」という言葉自体が既に思考実験というところから変わって広まっているということだ
今回はイラストの力も交えて広まっているが、それ以前から結構な人が知っている
それは元々の意味合いとは少しだけ違った形でである
それを無知であるなどということはできない、「シュレディンガーの猫」のようなもんだ
シュレディンガーの猫の話を誰がきちんと理解しているだろうか?
もしかしたら私以外の全ての人間が理解してるかもしれないな……
とはいえ、量子論や量子力学における観測者の観測という行為の影響とはなんだという話までは少しは分からなくはない(分からない、不完全さとか
しかし、シュレディンガーの猫は理解されてるか否かはともかくお話として人口に膾炙している
それが「死んでるのか生きてるのか分からん猫」という使われ方をしたところで問題は最早無くなっているということだ
トロッコ問題も、最早「トロッコが五人引き殺すか一人引き殺すかどっちにするかお前が決めなくてはならない。さあ、走って」くらいのノリになっているのかもしれない
ならば、きちんとした理解が必要ではあるものの、目くじら立てて突っ込みいれることでもなくなっていると言えるか
とはいえ、間違えた知識とあからさまな悪意をもって言葉を弄び、それをことさら誇る人というのは見るに堪えないのである
勿論自戒である
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二話でけた