ほのえりは世界を救う

答えは得た――高坂絵里

麦秀黍離

そもそも故郷などと言うものが幻想であるとしても

思い込みであるとしても

 

キラメキや輝きというユメが人心を慰撫し高揚させることを為政者は忘れてはならないが、それに呑まれてもならない

 

皆が楽しんでいるものを楽しみたいと思うのは自然の摂理である

しかし皆が楽しんでいるものを楽しめるかどうかは人それぞれの問題だ

ましてや何かで知り合い同じ楽しみを分かち合った人と楽しみをまた分かち合えればと願ってしまうのは無理もないことである

尊敬したりするなら尚更のこと

 

レヴュースタァライトである

アニメを見た私は余りのあわなさに倒れそうになったのだが、どうも皆には受けている

題材は興味深い

ところが気にくわない

アニメの作りと言うより(アニメ内などの)キャラセッティングが実にムカついたというのがポイントなのだが

 

ニコイチを最初から提示されるのが嫌なわけではない

例えば、テニスのダブルスならニコイチに決まってる(チーム内で入れ替わることもあろうが)

最初から二人一組の題材なら、ニコイチで話を始められても当然と受け入れる

そりゃそうやろと

でも……舞台にそれいる?

まずここで引っ掛かった

 

そして更に、公式が最初から「百合二人組組んどいたよー、ほらお前らこういうの好きだろ後は適度に燃料いれたら勝手に燃えるわチョロ」みたいな提示をしてきている

勿論私も乗るときは乗る

ビックウェーブに乗りたい時は乗るのだ、当たり前だろう

それを公式に煽られて燃えてる騙された子等と言われるのは腹が立つだろう

しかし乗りたくないときは行き場を失ってしまう

今回は乗りたくなかった

ゆえに行き場を失ったのだ

 

なんでひかりと華恋が勝つのかがよくわからなかった

なんでだろ?

そりゃぁ勝たなきゃ話が進まんやろ!

なんで勝つの?

説得力を感じれなかった、話の中で

再演中ひかりはイレギュラーだからそういうことはなかったと仮定して、なんでかつん

別に勝つのは構わないから、勝って進むことをこっちに納得させてくれ

「そんな日もある、今回は運がこっちに流れた」とかでもいいからさ

 

ばななが再演する理由付けが、なんなんだ

なんというか話のために話をつけた感じ

別にそれでも構わないがやはり説得力に欠ける

なんなんだお前は……

そんなん知らんがな、劇場版うる星やつら

るみこが切れるぞ

 

最後の展開まで来たらなんかこっ恥ずかしくて見てられなくなってきた

こいつらなんでこんな……わらかしてくれるの

真剣な視聴者の反応と自分を比較して頭が痛くなってしまったものである

見てる世界が違いすぎるのではと悩む、勿論多が正しいわけでも寡が正しいわけでもない

どうしてこれで皆世界に入れるんだ……?

このキャラたちに感情を移入する隙が見当たらねぇぞぉ……オラには

入れることが前提って一部の隙もみつかんねぇや、どうすりゃええねん

 

ばななのとこらへんから、私はどうやらアニメレヴュースタァライトというのは【壮大な劇中劇】なのではと思い始めた

勿論キリンの存在は全くもって舞台装置というより外でみている我々への当て付けというか見ているしかない視聴者観客の比喩存在でもあり、かつここは舞台の上であると言うことを指している表現だと読み取れるものだ、違うかもしれないがそう思った

ならばレヴューだけでなくそもそもこのアニメそのものが劇中劇であると仮定した方が多い分かりやすい

99回も再演するとか戦うとかコロスとかそもそも前提がおかしいわけだ

イレギュラーのひかりが介入するとかそんなわけはなく、それ自体が劇なのだ

アニメ全体が舞台であると言う入れ子構造にしてるわけで、そんなことは見てる人には皆わかってることだがそれを楽しめるかなというあの監督の問いかけである

後は多分そこら辺に関するあれやこれやのメッセージを匂わす程度に詰めてるんだろうが

なるほど

全ては舞台の上で彼女たちが演技をしているのを見ている我々もまたこの世界という舞台の上にたっているに過ぎずそれでもその中で輝き……じゃなかったキラメキを追っているのだ尊いのだと捉えればこの話も納得が

 

 

 

いくかぁ!

いかないよ、だからどうしたんだ!

だからって特に感動しないでしょーが!

どこに気持ちをおけばいいんだどこに

ここで主人公を応援するのは当たり前だ論はおかしいし、最初から声優さんが好きだから応援するとかそういうのは私には余りない

入り込みのとこで躓いたら進まないのよこれがぁ

 

 

野田、レヴュスタはどうだ?

あぁ、最高だ

皆のかわいいイラストやSSが見れる

じゅんななはかわいい、まやくろもわるかぁない、まひるはまひまひしてお母さんだし、双葉はんは面倒見のよさを発揮してるし、死ねどすだし、ひかりは舞台以外は四歳児だ

だが、それだけだ……

 

 

実際のところ、私は舞台を見に行った方がよいのではないかと思っている

そっちを見たら考えが変わる可能性は大いにある

だが、舞台は遠い

金がかかる、当たる当たらぬ八卦にそこまで注ぎ込めるか?

コミック版を買う決心がつきそうだよ

 

スタリラにララフィンがいてよかった

彼女のお陰でスタリラが存続してほしいと願えるからだ

後ゆっことつかさ

 

ララフィンの誕生日はまた四月にならないと来ない

突然今月から誕生日キラフェスとか始めやがって、こっちは十ヶ月待てというのか

サービスが終わってないとは思うが大丈夫なんかこれ

 

心が苦しいなら距離おきゃええやんと投げ掛ける人がいらっしゃるが

知り合い以外に投げつける人は「自分はそいつらの愚痴をみたくない」という一点で投げ掛けてるに決まってる

なんせ完全アンチならブロックすればいいが、すがりたいけど苦しんでるやつをすっぱりブロックするのは彼らとて良心の呵責というものがほんの少しあるのだろう

余計に心ないことを言ってる気はするが

 

キライになれないでも十分じゃない

ので

抱えた想いを信じるしかないのだ

 

亡国の苦しみ

お客様の中にまひかれの民はいらっしゃいませんか?

おらんか

おらんか……?

いるとは思うが観測範囲で見かけた試しがない

どこか遠い場所に集っている気はするが、彼らは息をしているか

 

なのはにおいて、なのアリ勢だった私ほどまだ息苦しくはないはずだ

始まる前からなのアリ勢だった私が最後に到達したのは「アリサ生きてるからもうそれだけでもいいか……」である

どうして

どうしてだろうなぁ

分かることは二度とあるまい

 

それはそうと、最初から生まれることを公式から祝福されなかった民というのは心が休まることはない

多くの彼らがどうか知らないが、私は一応本編がかれひかであることはそれはそれで仕方ないと諦めている

が、あれは所詮劇中劇(↑)と捉えれば、全ては夢幻であり何もかもを消し去って君だけの世界を作ればよいのである

設定を消し去れとは申し上げませんので、幼馴染みなのは幼馴染みで結構でござる

運命を交換されたのもそれはそれでよいでしょう

 

そんなもん、ぶち壊してみせろぉ

想念で壁を越えて見せろ

涼まひだぁ?

それもいいね!

でも、ひかまひで行くぞ! 構えろ! 突っ切れ!

 

押し潰されるな

敵を作るな

もし倒したいならやつらを争わせて滅亡に追い込め

最後に立ってたやつが、立ってたやつだ

残ったもんが歴史を作る

残ってあんたの夢を歴史に変えろ

倒したいならそれくらいの気概で挑め、相手は多勢だ、まともにゃ勝てん

友を見つけろ、去っていくのを追うな、紐帯はきつく締めて作られるものではない、結びつけるのは作られた形であり言葉であり信である

 

わぁもいずれ援護する

どいつもこいつも死にたがりばかりが

煉獄が満杯になっちまう

しかし、ここで引いたら我々は、愚痴と傷心と僻みがつまった糞袋になってしまう

それはあまりにやるせない

いずれ、誰もかれもがいなくなったときに最後まで灯をともしていたことを誇りにしましょうや

なぁ

 

人の交わりはかくも難しき、人の人たるはなんに基づくや

 

醴水の交わりと言う

君子の交わりは水のごとく(淡く長く)、小人の交わりは醴のごとく(濃く醒めやすい)

とはいえ、つき合いはスタートがいるのであり、色々あって残ったものが長続きするだけとも言えるだろう

私は小人であるが、されど濃さを分かち合うことに怯えるものである

熱狂の渦に巻き込まれるのを恐れている

それは一生に一度くらいでよいと感じている

 

山月記の話があったときに、私が醒めた目でそれを見てしまったのはなぜなのかの答は、決して私がその話を随分前にやってしまって今はそこに飽いているからだけではない

 

私が今虎になっているからだ

虎になっているからだ

でも私は虎にもなれなかったからだ

むしろ虎になれれば……だが虎にはなれないし、なりたくないし、なれるだけの自尊心がなかったのだ

羞恥心はあったし臆病ではあるのだが

そしてもう一つ、私の心を突き動かす炎があるから虎にならなくてすむのだがそれは置いておこう

 

自尊心がないと言うよりは、自己を固定的に捉えないのである

自己というものを一元性で見ないのである

それすらも集合的であり変異し推移し、私が私だと言えるなにかなどは文字でも言葉でも表せないものだと割りきることである

自己紹介や、自己分析などにおいて作り上げるのは一つ一つの関係性の中における自分にすぎないと

しかしそれはそれで大事なものであると

相対的な中でしか自己は定まらない

自己を自身の内に問いかける行為は、「自分と自分の関係性である」と

主客や観測論や世界線論や時間軸の話を走破していく内に培われて養った妙な考えである

 

こうやって考えていると言うことが自己を主張し確立していることを重々承知の上で申し上げている

しかるにこれまた今この瞬間文字にしているにもかかわらず心のうちはそう思っていないかもしれない

書いてあることを読んだあなたはこの人はそう考えていると信頼するかいなかは読んだ人にかかっている

ここまでの文でこいつはスタァライトを馬鹿にしてるなと感じたひとなら既に反発が強くて戯れ言をこいつは言ってると思うだろうし

(そんな人はここを読まない)

 

面白い文だったあれは

しかし内容は今の私にはどうでもよかった(途中ちょっとあれだったが、それはまたそれで書き手の心理の揺れ動きであると捉えられよう)

 

こういうことをそれなりに真剣かつふざけて話せるくらいの中ってのが、まあ多分つきあいが長続きするんじゃないかなぁと思うのでしたことよ

 

いつもの面子には、私のラブライブラブライブやらの愚痴を適当にスルーしてくれていることを感謝している

グラブルシャニマスアイギスと野球の話しかしてないけどな!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・銅駝荊棘

私は、人々がアイドルに対して入れ込み狂乱するのを厭って、こういった趣味の世界に入ったところがある

こちらもまた同じではあるが、同じではなく違うのだといいたかった、想いたかった

しかし、時代は変わりそれらの融合がもてはやされる時代となってしまった

私が見つけた居場所は、以前厭ったものと融合してしまった

 アイドルたちが嫌なのではない、それに対して黄色い声を上げる人々の姿を見たくないのである

そしてそれがキャラと入り混じってしまったものを見てしまうのが辛いのだ

熱狂をステキだと思う一方で、その様に生理的嫌悪を覚えるのは何故なのかわからない

自分自身同じような事をしているはずだし、同じこともしているはずなのに……人のことだと猛烈に気味が悪くなる

その自分の矛盾もどうしようもない卑劣なものであるのだが……

 

きっと人はそんなに崇拝してるわけではないんだろう

だって数年後にゃ切り替わってる人の方が多いし、半年もしたら前のこと忘れてる人の方が多いんだから

それでもやっぱり何と言うか、そういうのをおおっぴらに人に見せ付けるのは何か怖い

怖さが立つ

何故なのかわからない

この感覚は何なのか説明もつかないものだ

別にトラウマになるような過去があるわけでもないのに

 

逆に言えばnmmnで遊んでる人の方がよっぽどマシじゃないかなとか思ってしまう

ナマモノをnmmnといわなくてはならず迷惑をかけちゃだめとかいいまくる奴らの方がよっぽどおぞましい何かだ

 

信仰を嫌っているのだろうか、そうはいってもキャラへの想いも信仰の一種に他ならない

野球の贔屓球団への想いも一種のそれだろう、愛と信仰の結びつきうんぬん

でも何かこう、三次元の実在の個人に向けられた(或いは遊びの域を出ないものであるとしても)それらの表現(フリだと主張されるだろうものを含む)を見るにつけて、おぞましさがこみ上げて仕方ないのである

 

何故だろう……わからない

後、美的センスの違いなのか、ほんまにかわいいんかこれ…となってるものをカワイイといってる人たちが怖い

それもまた遊びだとしても……

 

わからないから怖いのだろうか?

それとも、何なんだろうね

人への愛というものに欠けていると言われたらそうなのかもしれないが、人というものの見方の違いではないかと思ってしまう所もある

 

人をイメージで捉えるのは普通の人付き合いでも当たり前の事だ

誰が相手の全てを分かるというのか、一部すらも分かっていないというのに

しかし偶像というイメージの押しつけでお約束として遊ぶというのは耐え切れないのかもしれない

相互の信があると思う人は思うだろうし、そこに信を見たくないし感じられない私みたいなのもいるということだろう

 

悩ましさは尽きぬ

ただ、我が心の故郷は既に燃え尽きたと思えてしまう

そんなものもやっぱり幻想だとしてもだ

 

発信者と受信者が余りに近くなりすぎた、正確には「近いと思えてしまうようになってしまいすぎた」

近いという幻想に縛られたくないのかもしれない

よい位置をもう一度見つめなおしたい

それがやっぱり人より遠いとしても