ほのえりは世界を救う

答えは得た――高坂絵里

シホウサン ワー(サークル四方山を称える話・・・・・・ではない、いつかしたい)

たくさん貯まったので吐き出し

 

政治的であるということ

(取り留めのない話)

人に自らの憂いをさらけ出すことをよしとし、人が自らの憂いをさらけ出すことには寛容でない場合
それは人が離れる最大の原因となりうる
理解を示していなくてもその振りをして欲しいと望んでいるだろう人には、それが自分の法を汚さない程度には対処してやるのは悪いことでもあるまい
そこで突っ張られてしまうと相手は不満を、表に出すか内に秘めるかはともかく、溜め込んでしまう
自分が我慢するか相手が我慢するか
これは悩ましく、ストレスの種になりがちだ

コミュニケーションが我を通すものか否かというのは国や民族によって異なるだけではない
もっと狭い、実際は人の組み合わせの数だけ無数に種類が存在する
類型化して単純にしないと説明がつかないだけだ

少し話をずらす
日本人……という括りにするかは難しいが、釣り合いの文化というより「我慢し合うコミュニケーション」というものがある
これは「誰かが意見を通すときは他の誰かは損しているはず、皆がそれぞれ損をしていくのだからそこは耐えてくれ」という釣り合いの取り方だ
マイナス方向の均一化である
プラス方向の均一化に対して何のメリットもないのではと思うが、『限られた資源を分け合って最大限に母集団全体を存続発展させる』という条件においてはプラスより機能する
資本主義とはおよそ噛み合わないように見えるが、国家そのものがある種の成長方向性を定め国民がそれに沿って悩まずに進んでいくのであれば、爆発的に機能しうる
国家社会主義……共産主義に最も適しているのは日本人だと言われる所以である


それなりに人々が豊かになり個人の意思の自由が尊ばれるようになったとき、成長の方向性が見失われたとき、後続の国家に優位性を奪われたとき
マイナス方向の均一化は事態を悪い方向に差し向ける
「お互いが耐えればいい」が、デフレを誘発し続ける
「皆耐えてるんだからお前も耐えてくれ」、が基盤の中小を崩壊させる
「皆我慢してるから」が肝心の未来への投資を鈍らせる
これは日本的組織学の組織の衰退期との兼ね合いもあるが割愛する
さて、話はそれまくってるようだが大事な話はここからだ

ネット上におけるコミュニケーションは、ある種『旅の恥はかきすて』的な発想を包含していることは否めない
コミュニティに属しているようで実際は属しきれていない場合、ここまで述べてきたマイナス方向の均一化……つまり我慢しようとは思わないということだ
これはネット黎明期において大変よい方向に結び付いた
我慢しすぎはよくない
我慢とは何も発信しないことにもつながりうる、抑圧された精神の解放の仕方は種々あり、その方法と場所を提供された人たちは華やかにそれらをやったと言える
悪い方向に進めたものもあるが、善悪と解放とはまた別の話だ
転換点は来る
TwitterSNS)が現実的なインフラと化してしまったところで難しさを生んだように、コミュニティがコミュニティとして確立してそこに現実的な人間の繋がりが強く出た場合果たしてコミュニケーションの取り方はどうとらえるべきなのか?
これは現実でも往々にして起こりうる問題だが、Twitter上のそれはさらに複雑な問題をはらんでいる

自分の属するコミュニティに対して抱いている感覚などそれぞれ違うに決まっている
Twitterというツールそのものに対する感情だってバラバラだ
フォロワーに抱いているものだってそうだろう
ところがその人を示している?だろうアカウントそのものに対する認識すら違うというところがポイントだ
起点はそこにあるはずなのに、アカウントに関して考えていることが全く人それぞれなんだからめんどくさい
替えの効くものと思っているのかどうか……現実には例え場所や状況によってペルソナを被っていようが個人は個人として認識されていることに変わりはない
偽名を使っている場合はともかく、職場と家庭と友人間とで演じ分けをしていてもAさんはAさんなのだ
足跡は残ってしまう
アカウントがその人であることを示して確定させるものであると考えるのと、いつでも捨てれるものであるという発想とは交わりはしない(Twitter社の都合でいつでも消えうせる儚いものと考えるのはまた別の話

フォローフォロワーに対する考え方の違いも一つにはそこら辺に起因しており、来るもの拒まず去るもの追わずとは簡単に言えるけど、邪魔っかしいから最初から拒否するというのも自衛手段だし無駄に多くても仕方あるまいと考える人もいる
リスト分けするのもめんどいし

TLをどうとらえるかというのもまた違うわけだ
目の前のことなのか、どうでもいいことなのか
相手がそれなりに喋り合う付き合いはある人なのか、それとも関係は実際はないどうでもいい勝手に喋る謎の存在なのか
勿論どちらもありうる
どちらもありうる、混ざっていてもいいし同じ存在が日によって切り替わることもあるだろう(人には機嫌というものがある

私は古い人間で、相互にフォローした上でリプする人はそこそこ選んでやっているしそもそもフォローを積極的にしたくないという感覚を持っている
とても上手い私好みのイラストを描いていても、日常ツイートが性格破綻者で見てるだけで気持ち悪い人がいたらその人のイラストをそのマイナス面を考慮せずに見ることができるのかというと私はそこまで聖人ではないからだ
(こいつは性格悪いけど絵は上手いから買う、という悲しい前置きをメモ欄に書くやつを自分から増やしたくないのである)
コミュニケーションを取ってもいいかなと思った人を選んでいる
それは言わばコミュニケーションを取れると自分が推挙して選んだわけで、その人に一定の信を置いたということだ
その人がちょっとやそっと自分にとって気に食わないことを言ったり、自分にとって不愉快なことを発言したとしても一度置いた信を簡単に翻したくないのである

Twitterを重く見すぎではと思われる人はそれはそれで一つの生き方だし気楽に使うべきものでもある
私自身徹底できてるわけではないが、そうありたいと考えているにすぎない
ほいっとフォロー返ししたりもしている

こう考えたときに、なるべく自分の発言にも一定の注意を払う必要がある
あちらをたてればこちらはたたないし、こちらを立てればあちらは立たない
とはいえ、自分の言いたいことを全部言えないのならTwitterやってる意味もない

ようやく本題に戻るが、この発想こそ【政治の基礎】の一つにあたる
他者への思いやりとは、人間の中に自然に沸き上がるものでなければ本来は教育で根付かせるものでもなく、自身のコミュニティにおける立場と相手のことを考える想像力から発するものだ
それが計算から来ない方がなんとなく漫画の主人公的でよいと思うかもしれないが、そんな人間は計算で動かない以上ありがた迷惑もやってくるものであり大層危険でもある
計算であることを見せる必要はない、時には見せてもよい

教育で根付かせる必要があるのは、コミュニティ内で各人がめいめいの想像力だけでそれを行った場合、差がついてしまって運営に不都合だからだ
また、一つの思想に統一することが一体感を生むのはこれもまたコミュニケーションの妙と言うものである

政治的でないことはない
三人よれば公界とはよく言ったものだ
自分を考え、相手を考え、発する言葉に重きを置く
この基礎こそ難しいのだ


ところで
Twitterの問題点は大通りで叫んでしまうのでその話題に関係ない人に届いてしまうことである
別垢を作るのは、別の空間別の仲間内での話ですよと訴えてることだし
鍵垢を作るのはほんとに身内だけの話ですよと言っていることになる
のだろうか?
wwwに発信している以上中々その言い分は通用しない気もする(鍵かけてると許可している人以外には秘密にしたいと見なされるけど

TLでフォロワー同士が喧嘩(not議論)してるのを見せられるのは中々めんどくさいよなぁ、DMでやってくれんかなぁと言えるだけの心を持つべきよな

 

絶対普遍の価値観という幻想への挑戦は続く

(箇条書き)

なぜ人は共通の基準を求めるのか

今考えているものはあなたの今までの経験を基礎としているはずだ
そもそもこのような疑問すらも、実は砂上の楼閣にすぎないことに気づいた上で議論すべきなのだ
コミュニケート
道徳
社会
集団でいきるために必要だったものは
今後何が尊ばれるというのか
イスラムの強さ
キリストの強さ
揺らぐ欧州
フランス発の思想たちの問題点
脱欧論
日本にはキリスト教はないんですよ助けて


カオスの勧め
疑え、もっと疑え
疑うことは争うことではない
しかしそれもまた同じ価値観を持たねば喧嘩になる

 

借り物の言葉とは

分かりやすい非難の言葉
相手が考え無しに人の説を引用して自分の論としている時に使うものだが、果たして借り物でない言葉とはなんなのか
直喩を直に捉えてしまうと、借り物でない言葉などまあほぼあるまい
エスペラント先生ならともかく
借り物とは何をもって……誰かの言葉をそのまま使ってるならともかく、説となると借り物なのかどうかの判定は難しい
理解してないとかなら判別が簡単だが、至極単純な説であったなら理解していないと言うこともないだろう

判定基準は結局相手が納得するかどうかになるのか
だとすれば借り物かどうかなど実際は分からないのだから発言者を馬鹿にしてると捉えられることも往々にしてある(実際の知能は別として
ならば、余り気にする言葉ではないのかもしれない、そもそもその言葉を使わずに論じあって翻意させればよいはずなんだから
それができないときに使いがちなので、そうならないように気を付けねばなるまい

 

人に物を申し上げる時に感じる、他者との距離の測定の難しさ

(やるせなさ)

相手を見て言葉を選ぶべきなのだろう
しかしツイッター上(Twitter上は特に)繋がりと言うのが漫然と、希薄さを漂わせる
繋がりに依存しているくせに、繋がりに対する受け止め方が繋がらない他人でしかないのである
フォロワーを「自分の言うことにたまに相槌を打ってくれる」「時に有益な情報を流してくれる」便利なやつ……と誰もがそこまでドライに見ている訳ではないだろう
しかし、Twitter上でできた相互フォロワーの関係とは他の場での関係がない限りその域を脱しないことの方が多い
一方向がそうであり、逆はそうではないと言うケースもありうる
そしてそれらが複数絡み合っていき個々のTLが作成されている以上、個人の憤りはともかくTL上でフォロワー同士がいさかいを始めることも往々にしてある
君らは何を争っとんねんと
TL上で争い始めるとそれを見なければいいとはいえやはり気のいいものではあるまい、議論ならまだしも完全に八つ当たりのとばっちりから喧嘩し始めてたら最早地獄だ

それをスルーすることができるのかと言うととてもじゃないが心の弱い私には堪えがたいのである
そこでエアリプで落とし所付けろ、言外にいい加減にせーやと言ったら、「関係ないだろ」と言われてしまった時の気持ち
こればっかりは「確かにそうだね私関係ないね」と言ったものの、(そっかー、まあそうだけどその発言はこれまでの関係性を簡単に打ち切るものですよな)とならざるを得ない
その場の言葉でしか関係がないのに言葉を受け付けないならそれは終わりだと思わざるをえないではないか

【自分は言いたいことを言ってもいいが、人に言われるのは嫌です】
と言う人間と話をしたい人はいまい
いや、それでも顔を付き合わせないといけないのが社会にはあるだろう
SNSには無い
そうなるとこれまで私が感じていた距離と彼の中のそれとは妄想が一致していなかったということになる

とはいえ、一過性の激情によるモノだとすると可哀想なのでほったらかしにしておいたのだが
何かツイートを全部じわじわ黒歴史クリーナーで消しながら「どんどんツイート減ってる」とかたまに呟くんだからどうしようかなぁと思うもの
自分から殻に込もって緩やかに自殺しながら「あーもうすぐ死ぬ」と言ってるのを見せられるのは当て付けだとしても人間性を疑う
というのも一過性の激情の反動から来る鬱かもしれないのでそのうち戻るかもしれない

が、どこまで付き合うべきか悩むところではないだろうか
ちゃんと考えて「言葉をかけない」という選択を取るべきだったかなと思わなくもない
仲裁は立場・立ち位置の強い人のやることだ、纏められないならやるべきではない
適当なことを言うべきでなかったと反省する
なだめられるようなことをされたくないという彼のプライドを分かっていながら自分の気の悪いTLを収めたいという都合を優先したのはまずかっただろう
八つ当たりなのが分かってたから見苦しかったのもあるが

 

ファンの消費を投資であるという

(本項は支離滅裂)

確かに商品が売れれば次の商品が出る可能性は高まるのだから、好きなコンテンツに金を注ぎ込むことを投資というのはそうだろう
しかし自分は投資だと思い込むことにしてるとTwitterで言うのはともかくそれをRTする人たちは何を思ってRTしてるのか分からない
素敵な思想だと思ってるのだろうか、多くの人に投資して欲しいのか
たとえそれが形上投資になっているとしても、それを投資であると思ってしまうのはおこがましくもあるのではないか
パトロンであるという気持ちが芸術を育てるのであるならば大衆芸術なんていりやせんわな、そんならAKBの選挙を馬鹿にできん
金持ちたちのおこぼれをもらう……というのはそれはそれでよいし、日々の糧に印刷代にときちんともらった分の対価を払うのはそれはそれでよい
しかし投資という概念を持ってしまったらそれはもう、言い訳だろう
言い訳をもって金を使うことの抵抗を薄めるのが悪いわけでもないが、良いわけでもあるまい

と私は思う

これは悩ましい問題だ、別に金が悪いということを言いたいわけではない
金は大事だ、何かにつけて金は必要だ、大きなコンテンツには膨大に必要だ、個人ですらもたくさんいるのに(いらないやり方はあれども
それを集めるのはよいことだが、ファンの側が投資しなきゃとか投資が大事とか言い始めるのは何だかこう恐ろしいものではある
クラファンとは訳が違う
金をたくさん払ったやつが当該ゲームで強いとかは別にそれでいいし、金をたくさん払えばいいグッズやいい席を取れるとかは当然だが、それらを投資という概念に置き換えるのはなんだかなぁとなったりもする
でもそれはそうであるといやそうなので否定はできない
むしろ余程正しいのだが、私がなんやかそう思えないのはなぜなのか

たぶんこれは私の方が古い考えなんだと思う
例えばこれが、「新しい料理屋ができて気に入ったけど、まだ客が少なそうだからたくさん足を運ぼう、友達も連れていこう」だったら何のおかしいところも感じないのだ
投資という言葉をわざわざ使わないだけで立派に投資しているとも言えるだろう(本当?
それと何の違いがあるのかというと何の違いもないはずだ

そうなると、『投資』という言葉そのものに対してネガティブイメージを持っているのか?
恐らく持っている
持っているのはネガティブイメージというよりビジネスライクなイメージだ
つまりあくまでコンテンツに対する一般的なファンが使うなら、ネタで言ってるつもりであって欲しいのだ
本気だとしたらほとほと困るやつ

だから、それを発言するのは別によい、私もする
そいつを【拡散するやつら】に対して気持ちの悪さを覚えるのだ
なんで、それ拡散したの?
え、本気で……なの?
だとしたらやばくないか……とね

 

 

作品の正しさとは、正しいファンとは?

整合性、納得、人それぞれの矜持
原作狂信者を家畜と罵ることを間違いと言い切れるのか?(礼儀の面を除いて)

映画大好きフランちゃんを読んで


東方ソシャゲのカタストロフ?の話

人がある種の感情を持つことを否定できる術はない
しかしそれは議論に出されても困るものである
つまりはじめから議論の余地がない

 

番外

社会学者と民主主義と大衆政治)

結論がでない話に興味を持たせるためには
社会学とは新しい主義主張を戦わせるための学問ではないが、政治及びメディア、現代社会情勢と密接にならざるを得ない
だからといって彼らを報道の舞台に招いてさも権威あるかのごとく振る舞わせるのは見ていて中々いたたまれないものだ、振る舞う方も振る舞う方だが

 

いわゆる革命家が持て囃されるのは、停滞的な時勢を打破することをもとめられるからである

つまり『現状に対する戦争』である

戦というものは終着点を持って始めねばならないのだが、大衆心理というものが現実的な目標よりも【薔薇色の未来】を見がちであることは致し方ないことである

これは大衆というものを構成する個個人がが愚かで先見性が無いから集合的に愚かな考えに至るということではなく

群体としての大衆が物事を決する際に多数決を採用すると、『現状を打破するために活動を始めたのに妥協をするとは弱腰である』という決着に陥りやすいからだ

一旦掲げた看板を外せなくなる、外すことを恥であると感じる人が多いと特にそうなる

いわゆるブレーキがきかないというやつで、【ブレーキがきかないならアクセルを勢いよく踏む人間がどうしても持て囃されてしまう】

まさに衆愚と言うべきなのだが、民衆個人個人が愚なのではなく、大衆というものが愚に走りやすいことを指す

 

水夫がたくさんいてもいいし、それぞれが行きたいところを主張して議論をするのはよい

漕ぎ始めてからも議論をし続けるのも大事だ

だが、船頭は一人に定めなくてはならないのだ

アテネ民主主義の全盛期にはペリクレスがいた

アメリカは民主主義の国ではなく資本主義の国だ

フランスの政治が彼らの歩んだ歴史を見て羨ましいと思えるだろうか

ゆえに私は民主主義をそこまで愛していないのだ

だが、こいつは麻薬みたいなもので一度吸った人間の心を掴んで離さない

ゆえに私は政治的な見解から、止むを得ず民主主義を推戴するのである