ほのえりは世界を救う

答えは得た――高坂絵里

謳われないアニメ至上主義 ~ サイレント魔女☆リティによる無自覚の圧迫をどう考えるか

経緯

何か昼頃のラブライブTLに

「G's至上主義者がアニメを批難するのは……」

みたいな話がちらと流れてきた

私のTwitterの感度が低いのか、それともTLをまあまあ固めているからか

その大元のツイートは流れてこなかった

皆ありがとう……昨日の話題だったのかな?

 

この議論の七めんどくささは百も二百も承知であり、触れることは友達(と思い込んでいる知り合い)を減らすことに繋がりかねないので忌避される傾向にある

 

そういう態度を硬化させたら、そりゃ話題を他者から振られなくなるに決まってるんだから疎外感を感じるのは自業自得……

 

と切り捨ててしまってよいのだろうか?

もう議論が届かないところに行ってしまったのなら仕方ないし

何より知り合いでもない奴がそんなことを言ってたのなら、好きな人は自分の手で袋叩きにするか、晒し上げて他の人が袋叩きにするのを胸のすく思いで見ながら「そこまで殴らなくてもいいのでは」と自制心が残っていると言う虚栄心を満たしながら目的を達するのがオチだ

後者の方が偽善の最たるやつだと思うが、まあ他者の心の内側など決めかかったところで仕方ない

そんなものは自分で気づいて反省する以外に道はない

気づかない方がストレスなく生きれるだろう

 

が、あえて切り込んでみることも必要であろう

 

そもそもどうして起きるのか

マルチメディア戦略を繰り出すコンテンツにおいて、昨今往々にして起こりうる事態である

……そんなに起こらないな

そこまで起こらないのは、大抵上手くいかないからだ

元来の上手く行くケースは、原作がヒットしてそれを忠実に再現するパターンが多い

つまり

基盤となる話や設定が存在して、そこからアレンジなどで発展すると言うパターンである

同時並行ではなく、基礎に対して枝を伸ばし花実をつけるというものだ

 

 

それとは違った戦略として、最初っからマルチ展開を根本としそれぞれが別のセクション……ともすれば別の会社で行うという形態が昨今とられている

これは簡単に言えばキャラクターコンテンツ戦略なわけで、昔からある形なのだが

これは2.5次元戦略……(商法)と相性がよい

 

声優によるユニットを作って彼等彼女達を事務所から借りて(借りて)動かしつつ、ゲームのリリースの準備もしながら、ドラマCDやアニメ化の段取りをつけつつ、情報を出すタイミングを図らねばならない

特に声優拘束を売れてない状態で長いことするわけにはいかない(既に売れてるコンテンツへの投資ならば、虹のように死ぬほど待たせたとしても事務所側が我慢してくれるだろうが)

こんな時にえっちらおっちらお互いの作品の設定を擦り合わせてシナリオを練って……なんて出来るわけがない

売れたシナリオを本筋にして……なんて、売れるかどうか分かんないんだよ

そこそこの資本をもって維持できるならともかく、博打するにも我慢できる期間がある

特に今のサイクルのスピードでは、じっくり育てますなんて夢のまた夢だ

「育てた」と言ってるのは、当たったから育てたと言い張っているか、自分の好きなコンテンツが宝くじの当選者だと思いたくないだけだ

「なんだお前彼等彼女達が努力してないというのかあ?」

違う

外れたやつも全員努力してると言いたいのだ

だからこそ当たったやつは当たり馬券を掴んだやつだと

 

話を戻そう

今はマルチメディア戦略の中でも並行戦略が基礎となっている

とはいえ、メディアによって出る順番というのが存在するわけだ……

企画は本に載る方が早いし、漫画とか小説はそれに合わせてでてくるし、声優はスタンバイしてるからそっちも早く進められる

CDも録っておいて出すタイミングを見計らえばよい

 

アニメやゲームはそうはいかない

ゲームはリリースが不測の事態で遅れることがママあるのだから、そんなものと足並みを合わせるのは危険すぎる

ゆえに後先は発生する

アニメはそこら辺である程度知名度を稼いで宣伝してから出したいだろう、最後の登場になる

けもフレの喜劇はご存知だろう、そしてそこから生まれた2の悲劇も……)

 

そのタイムラグは結構大きく、下手をすると2~3年のスパンが飽きかねない

コンテンツの主軸たる一集団がかなりの指揮権を握っているなら設定がバラけることはない(意図的にばらすことは可能)

そもそもそういう意図がなく基礎設定のみで他は自由~なのを基調にしていたり、各メディアにおける都合で設定や筋を大きく変えるとことを容認するパターン

 

このときに、この手の問題は発生する

 

アニメは強い

アニメは

 

強い

 

強い

強いのだ

アニメはめちゃくちゃ強いんだ

 

なぜ強いのか?

それは、基本的に日本においては無料で見れてしまうからだ

(今はソシャゲがあるけれど、それはちょっと違うと誰しも思うだろう、そもかかる時間が違いすぎる)

他のメディアには絶対にない強みだ

止めろとは全く思わないが完全にバランスブレイカーよな

……逆に言えば、無料で見ることに慣れられてしまっていて辛い目にあってるわけだが(特に下請けアニメーターが)

 

とにかく強い

強いがゆえに、アニメから入ってくる人口は先行メディアのそれよりも圧倒的にでかいんだ

極めて圧倒的

8:2?

9:1?

爆発的にヒットした場合、そんな程度では多分すまないだろう

具体的数字はよりけりなので確定できないが

 

さて、二次創作界隈でもアニメはじまらにゃ入ってこないことの方が多い

これはアニメ始まって人増えたからイナゴのように集ってくるというだけではなく、『アニメが始まるならば見てみよう』というきっかけが本当に強いことを意味する

前者がないとは言い切れないが、だとしても人が集まっているから彼等も興味が湧くのであって、集まっていることの方が先だ

 

人がいるから、祭りになってるから興味をもって集まるのだ

人がいて、何か面白いことやってるから真似してやりたくなるのだ

人がたくさんいるから、もしかして自分がやっても見てもらえるかもとやってみたくなれるのだ

 

これはアニメの強さだ

映像は強いんだ、決まった時間に放送され皆が一斉に見ることになる映像は強烈なのだ

この辺りは今日の話題ではないので流すが、こういう話も中々興味深いところだ

 

最初に見たものを親だと思う~インプリンティング

強くて悪いことはない

悪いことはないように思えるが……

 

さて、ここにアニメが始まる前から2年ほど別媒体である程度設定を固めてきたり、話をちょこちょこ進めてきたコンテンツがあるとする

そこではまあそんなにはっきりと話の筋が進んでいるわけではないものの、それなりに満足してのどかな暮らしをするファン達がいたと仮定しよう

 

アニメ化、喜ばしいなぁ~

どんな感じでうちらの好きなこの話が……まあ話にはなってないけど、展開されるかなー

 

蓋を開けたら

全然知らん設定の同じ名前のキャラが当然知らないストーリーを展開して

それが大ヒットしてファンが急増

急増どころか99%がアニメから来た人だ

元からいたファン達も、かなりの人は「まあアニメ化で流行ったんだからしょうがないよねー」となる

 

時にはアニメから来た人も昔のコンテンツをみてくれてはまってくれることもある

でも、彼等にとってそのコンテンツの基礎はアニメのストーリーで

あくまで知識として見てくれているに過ぎないのかもしれない……

 

居場所が無くなる感覚を覚える

おかしい、自分は昔から好きだったはずなんだが……

いつの間にか、それに対する不満を漏らせば「老害乙」だの「意固地」だの「もう居場所がないと思ったら静かに消えろ」だの……

 

最後に発言として残るのは、過激なタイプのやつだけである

そして最後に暴れると余計に反撃をくらって、結局暴れる方が悪いという結論に落とし込まれて悪いやつほ悪い理論で解決されて流される

 

どこで道を間違えたのか

葛藤を胸のうちに残しつつも、ファンである事を止められないものたちは何ともいえない気分をどこかに残しつつも何らかの折り合いをつけて表面上にこやかに過ごして行く

もしくは静かに去る

孤、群

ここまでの話は何度も話されてきたことだ

誰もがたどり着くところだ

辿り着いていて欲しいところだ

 

そしてそんなもので争っても優劣のつけようがない

個々人に刷り込まれた愛情の向け先のどちらが真とか偽だとか、一体どこの神様が判定してくれるというのか

運営は神ではない

ましてやファンの総意が神でもない

本来一人で決着せねばならないことだ

 

感情の創出とは、創作とは、芸術とは究極的には孤独なのだ

 

と前も言ったんだけど今も言うべきだろう

理解されたいと思っても、誰かに見てもらうものだとしても、孤独であることを知ることが一つの到達点であり通過点にあった方がよい

よい、程度に過ぎない

つまりこういう考え方をすると、少しくらい苦しみが和らぐかもしれない……というプラシーボの一種だ

処方してもよいし投げ捨ててもよい

予防線と言うよりは、まだ私も絶対そうであると言い切れる自信がないからだ

明後日とはいわないが2ヶ月もすれば変わりうる

 

これは集団行動や共通意識(の確認)による感情の昂りから起こる感情の存在とは矛盾しない

それらもまた最終的に受けるのは個人個人違うはず

それを同じであるという幻想……というより、「同じである」と同じように思うことによる、いわゆる連鎖的反応が爆発的な何かを生み出す可能性を有する

が、それはやはり個人の感覚に帰する

 

孤独というと「寂しさ」とかを感じるのは、まさに人の遺伝的要素が集団的な行動を真と見なしてきたことに起因する極めて生物学的なものだ

独というより、孤なのだ

冷たさを感じるかもしれないが、むしろ自らの孤を見ていない人は相手のことを「集団でいることで気持ちよくなれる部品」としか見ていない可能性を有する

 

これは誰もがどちらも有するので、決してどちらかの持ち方しかしていないなどということはない

時と場合による

 

ここではこうなる

いわゆるオタクというものが社会からつまはじきにされていたころに芽生えた集団意識

SNS時代に芽生えた、距離感を確定しづらい繋がり感

繋がっているかいないかが数字化されてしまうことへの襲い来る潜在的な恐怖心

その繋がりは同じものをある程度同じように応援しているはずだというところからくるはずだ……

 

敬意とか歴史とかそんなことは知ったことではないし、今楽しめてないやつはまあ黙って消えればよいのでは?

楽しんでるやつを楽しくなくさせるようなやつは基本的に悪ではないか?

となってしまいがちな結構めんどくさい状況を生んでいる

あまりに数が多いため良識的な意見を張りづらいし、かといってその意見は基本的に届けたい相手に届かない

届かないということはやられてるやつから見れば一種の黙認であり……

 

数の多さが強さである

極めて民主的で、民主政治(ノットイコール民主主義)のクソっぷりが見えるがその話は無しにして

 

孤と群を見て、己がしたかったことを見直した方がよい

人々にアニメ前の方を布教することをしたかったのか?

ならばそれは同じく刷り込みでアニメを親だと思ってるやつに論難吹っ掛けて目的が達成されるのか?

今何が不満で、どうして不満を抱いているのか?

それでもアニメが嫌いなら、立ち回りを上手くやって密かに同士を集めるのはどうか?

その炎は最後まで燃やせるものか?

5万のペルシャ兵に1人で立ち向かって玉砕したいのか?

それとも……

 

周囲を変えたいのか、己が変われないのか

己をどうしたいのか、世界を変えてみせたいのか

 

孤であることに気づいたときに、やるべきことが見えるかもしれない

 

無意識的集団圧力をかけていることに、かけている側が気付くわけがない

出来るわけがない

気付かないから無意識なのだ

人間であることを前提に話を進めている人が、自分が人間であることを何度も確認しながら話すようなことはしない

「自分は人間だ……」

という発言は、相手が妖怪とかモンスターとか魔族とか、後はよっぽどの人でなしかの時にしか発生しないだろう

最後のそれは道徳的な規範を守る人間という意味になってしまうんだが

 

当たり前とは当たり前だからこそ当たり前なのだ

無意識とは意識が届かないからだ

「まあ言ってることは分からなくもないよ」

とは

「(言ってることは分からなくはない)けれど、それは絶対受け入れられないよねー無理無理」

という後半部分こそが前提である

この前提のもとに優しい言葉っぽいものを投げかけられても絶対に響かない

かけた側は、「自分は優しい言葉をかけたのにどうしてあいつはキレてるんだ……?」となって余計に忌避する

言い方が悪いとかも、大概は言い方がよくても受け入れないことが前提だ

 

アニメから入った人間は、基本的にアニメが親でアニメを基本として他メディアを亜種と見なす

当たり前だ

極自然だ

しかしこれは先からいる人たちにとって耐えられるものだろうか?

趣味である……と言って、切り捨てられるのか?

その趣味に「自分は命かけてる」と言い切る人たちが、集団を攻撃してきた相手に対しては「趣味だから折れろ」と同じ口で言うのか?

 

「どこで自殺するかくらい選ばせてやれ。死んだら迷惑とか関係ないわ、注意とか無駄」と言う人が同じ口で「公式凸とか理解の足りてないやつは表で発言して恥ずかしくないのか?」と言うのと同じくらい酷い言い種ではないか?

 

勿論、攻撃した方に問題はある

そのやり口は決してよくない

あれは、そこにしかアイデンティティを保つこと見いだせなかったがゆえに出てくる発言だ

それはつらいことでもあるのだが

 

だが、それは立場を変えれば誰にでも起き得ることだと感じるべきではないか?

捨て台詞を吐いて逃げ出さなくてはならないほど追い込まれていないことを、幸せだと再確認すべきではないか?

一度外側から見たときに自分達がモンスターだと……

 

数とは強さだ

強さとは悪たりうる

悪は憎まれる

この場合の悪とは善悪ではなく、強いという意味の悪である

 

そもそも形成されている集団の要素それぞれが全て数を誇っているわけではない

 むしろ数を誇っている人なんて少ない(状況によっては突然胸を張り出すこともある

しかし、そんな事は追い込まれている側には実は関係ない

数が非常に少ない側は、厳然たる事実として数が多いという絶対の要素を、首元に突きつけられたナイフの如く押し当てられている

 

数が多いということが彼らにとって最悪の、どうしようもない恐怖なのだ

 

それは脅迫観念にかなり近いのかもしれないが、彼らからすれば逃れようのない死活問題である

全く異質であればまだしも、外から見たら同質であって中で相容れない異質さを持ち合わせている場合はより問題になる

同じだろうが!

違うのだ!

なのに同化を迫られて、同化しないなら立ち去れてと言われてしまうのであるならこれほどつらいことはない

ましてや趣味である

生存に関わる関わらないはこの際抜きにして、趣味であるのにここまで圧迫されたらどうすればいいのか

 

「趣味だから、もっと楽しいことを求めなさい」は全く持って逆なのだ

相手の精神を逆撫でする魔法の言葉だといえる

「趣味だからこそ、立ち去らねばならないほど追い込まれねばならない訳が納得できない」

こう思うに決まっている

かける言葉が大いに間違ってると思うんだが、そうではないのだろうか?

 

ところが、数が多い側は別に自分達が集団を持って彼らを脅迫しているわけではないし当然そんなつもりはこれっぽっちもないんだから、勝手に相手が発狂してるとしか思わないわけである

この認識の齟齬はお互いにとってどうしようもないことであり、そして不幸を感じるのは片一方だけだ

 

 

難しい

難しいんだ

我々の意識とは……こんなことを書いているこの文章すら、ある種の幸福によって成り立っていることを

自覚しているつもりで何も分かっていないのだから

 

知らないことを知ることはあまりに難しい

 

こんな問答よりも、どうやってそういった葛藤と付き合うかを書いた方がよっぽど世の中の役に立つか知れない

でもそれもまた人それぞれなのだから……

そういうのを書いたら、そんなことでは出来ませんとかいわれるのがオチだ

 

まあでも書いてるんだけどねここに

 つまり、個人の枠組みと集団の枠組み、双方との向き合い方をもっと見つめなおす必要があるのではないかと提案したいのだ

熱狂に身を委ねたいと思いつつも、そこに突っ込んだら自分が自分でなくなるのではないかとか

集団を尊重したいが、それとは別に自分を貫きたいとか

今おかれている立場が少数派であるときに自分が何をしたいのかとか……

 

そんな事ができるならそもそもそんな事は起こさないし、こんな文を書いているということは私だってそんなことは出来てなどいない

でも、考えることを提案することだけは可能だ

変に我慢するよりもマシだ

その時にまた別の我慢をすべきことになったとしても、得られるものとのつりあいを考慮できる分まだマシと思いたいからだ

損得勘定だけで生きてはないが、感情の損得は絶対に働くものでして

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の話

 

私がサンシャインアニメの筋を毛嫌いしているけれど、ところどころの設定はそこまで嫌っていなくてAqoursも好んでいるとかさ

 

そのことをたまにしかTLでは吐かないけれど、吐いたときにフォロワーがスルーしてくれているとかこちらもそれなりに言わないよう心がけてるとか

 

 

後、なのフェイが好きではないのに、なのはが好きだとかさ……

 

幸か不幸か、私はそこまで入れ込んでいなかった

少なくとも、魂をかけるほどではなかった

そこに魂をかけていなかった

別の軸があった(東方があった

そしてその東方すらも魂をかけていたわけではなかった

 

一般参加の同人イベントに置いても、買い方を誰かに学んだわけではなかった

独学が良いとは思わないが、一人で行動することに重きを置いていた

大学でその手のサークルに入ったりしなかった

後から幸福にも誘われて、ある集団に協力して見返りを貰ったりもしたが

基本路線を単体で動くことに置いていた

 

誰かと楽しみを分かち合いたいが、それはそれとして個人の美と楽を追求することにかけることに楽しみを見出していた

このことが今のスタンスに繋がっていて、割とそれに感謝している

替わりに安易な(価値として安っぽいわけではなく、仕掛けとして単純と言う意味)狂騒に混ざりきれない自分を生み出したという点では、非常に厄介な代物でもある

 

自己の自己たる基準を持つということは、硬直性を生む事にも繋がりかねないが、己を抑制するための大いなる手段足りえると思っている

それが無い

もしくは仮初でも間違いでも見つけられていないと、窮地に陥ったときに頼るものが無くなる

別にそれが「誰かと一緒に何かを楽しむことを至上とする」という事でも全く構わない、個で完結している必要性はない

その場合、それに対応して我慢することもまた生まれるに過ぎない

 

その基準を誰かに押し付けたくない、という基準もまた持っている

それは集団としてでもか……といわれると、非常に難しい

常識と言うものもまたそれである

常識を押し付けたくないが、常識は集団を維持する上で非常に重要なものだ

常識と言う共通幻想があって初めて集団は規律を保てるともいえる、明確なルールで全てを縛っているわけではない

その曖昧な所をある程度決定するのは数だ

数以外にない、幻想は数が勝負だからだ

一人の妄想が全てを覆うわけではない、覆うとしたらその妄想を多数派が是とした場合でしかない

 

どの道、私はカオスローを尊重する(すなわち、カオスの中に勝手にローが生まれる)

ニュートラニュートラルと言うわけには行かない

ローカオスでもない(ローが先にあり、その元でカオスが存在する)

だからこそある程度までは放置したいし、その後はもうやりあうしかないと思う

 

そこで、必要なのは言辞だ

暴力や数を唯一覆せるまさに人間的な手法は、レトリックである

口先三寸で山を動かすしかない

レトリックをもって、それを使った創作などをもって、100万人とはいわないまでも300人くらいの心を動かせるようになりたいと

そう願って止まないのだ