ほのえりは世界を救う

答えは得た――高坂絵里

現代情報論考(一部抜粋)

前置き(抜粋)

タイトルを見たとき、多くの人(多くはない)は何かしらの資料から引用でもしたのかと思われる可能性が高いでしょう

 

そんな学問があるのかないのか私は知りません

 

ありそうな気もします

少なくともこれは適当に私が日頃考えてる事の一部を勝手に書いただけです

しかし、タイトルを見ると何となくどこかの大学のメディア系か哲学系の講義にそういうものがありそうに見えるかもしれない

 

ならば全くのでたらめかというとそうでもない

そもそも哲学というのを体系的に理解しようとするのは整理と説明伝播のために過ぎず、体系化されている必要性はないわけです

定義そのものを疑うのであるなら、名乗ったもの勝ちとも言えましょう

しかし、それでは人に伝わらないし興味も持って貰えない

名前だけが奇抜で人目を引いても中身がなければ意味もなく

スカスカでいいなら『白馬非馬論の上っ面』だけで押しきってもよいのです

上っ面はともかく公孫竜はそれだけではないし、あれは突っ込むとかなり重要な話なんですが

 

ここまでは意味がない話でもあり意味があります

少なくともここまでを読んだ人は読む意思を有しており、ここからも読むことができるからです

ここからの話は極めて観念的であり具体性に欠け主観性が強くおよそ理論とは言いづらい

しかし観念とは主観に大きく左右されるものであり、最後は納得するか否かに収束するわけです

納得しないなら他を探すかそもそも考えないかになるわけで

ならここを読む人は少なくともくどくどしさに関しては了承をしてくれたものと見て、思考の端緒にしてくれる可能性を見て私も大いに語れるというもの

 

ふるい落としは情報拡散の逆を行くものですが、目立つ方法でまず読ませることをヨシとするのは興味のレベルの低い人に思考の固定を促進させてしまう

それは欲するところではない

一意の正解を求めたがるのは世の常なれど、【現代】を銘打つならその現代そのものがこうやって文字打つ一秒後には過去になることを考慮せねばならないのですから……

あなたも、私にとっても

 

(抜粋)情報発信の寡占構造を打破できないことへの鬱屈と葛藤

個人の情報発信が極めて容易になったからといって、その情報が多くの人に見られるかどうかというのは容易なことではない

いや、逆に難しくなったとも言えなくはない

 

偶発的な拡散、いわゆる祭りは起きうるがそれは容易に制御できるものではない

専門業者によるバズらせはリスクが極めて高いし、何より個人が利用するものでもない

負の方向、いわゆる炎上についてはこの場合は除くものとする

 

情報を届けたいものに届くよう努力するのは結局それなりの努力が必要であるし、それは過去よりも低コストで行えるようになったとはいえ結局は地道な努力か金か信頼が必要なのだ

 

本題に入ろう

ある大きな事件が起こったとする

TwitterでもLINEでもポータルサイトでもまとめサイトでも5chでもFBでもよい

最初それをどうやって知るだろうか?

 

大概はNHKや大手新聞社のTwitterや、ニュース速報的なものが多くの人の一次ソースに該当するだろう

 

現場の人が動画や写真などをあげる方が早い?

実況されている?

外から見えている場合は確かにそうだ

しかし見えなければそうはならないし、ショッキングなものでもなければ広まる速度は極めて遅くなるだろう

 

個人が情報を発信する時代と言われるが、大本になる発信者は相も変わらず旧来メディアのままなのだ

最新・専門技術などの発信に関しては元々彼らでは手に負えなかったり専門的すぎて大衆紙に載せるに適さないので外縁でやられていることの方が多いだろうが……

 

依存状態は何も変わっていない

疑うことを覚えても、それに元を頼らざるを得ない

そして、彼らの陣容は何も変わっちゃいないのだ

これが例えば興亡があって、新たな会社が勃興したり大手の一社がぺしゃんと潰れたりしたならば(申し訳ないけど)話は別なのだが

ある意味期待していた人たちにとっては閉塞感が半端ない

新しいメディアで新しい楽しみ方をしている人たちは、それでよいようで実態は変わらないことに気付いている

余りに長く続いた関係はちょっとやそっとでは変われないのだ

食い込むことも難しいものだ

 

 

これは経済的な状況(新しい業界や階級や層の景気のよさから彼らに都合のよい新メディア設立への投資機運が高まる……ということが今はない)とも連動するものだが

既存大手メディアの脈々たる企業努力を無視してはならない

彼らは努力した

広告や宣伝、地域に根を張りイベントを主催したりそれによって情報を掴みまたそれをもって根を広げ……

これは軽いものではない、そしてその情報網と人員と(主要紙面では表だって喧嘩をしないという)護送船団方式を生かして長らえてきたことを軽んじてはならない

それによって多大なる、いい意味でも悪い意味でも築き上げた巨大な信頼をもってして君臨しているのだ

 

高々数十年生きただけの個人では全く太刀打ちできない

 いや、もっといえば20代以下の人間全部つぎ込んでも真っ向では勝負にならないくらいのものだ

フェイクニュース」と言うニュースを見るたびに「あなたたちが流すのはフェイクじゃないのか」「誰があなた方の情報の真実性をチェックするのか」と言った反感を覚える人がいるとして

その反感を覚えるのは、やっぱり彼らが大きく基礎的に存在するという現状をひっくり返しづらいからである

そうでないなら「勝手に吠えてろ」という言うに過ぎないのだ

 

 

それでは詰まらんと思う人が増えてきているのは間違いない

多数ではない

増えてきているというに留めよう

 

そういう人は既存大手メディアが柵に捕われており、自由さや公平さに著しく欠けていると考える

実際そうである部分は大きい

が、外からは断ち切れない

なら新しいものを作るべきかと働きかける人が中々いない

情報網に割って入るのは並大抵ではできないからだ

バックがない

新興業界がそれを成せるだけの勢いを作ることが出来ず、彼らが拡張するためには既存メディアに頼らざるを得ない

完全に対立しているといえるのはゲーム業界くらいであるが、それすらも批判記事を打ち消すために取り込まれてしまうんだからしょっぱい現実と言うものが待ち受けている

 

この閉塞感から来る鬱屈はいかに解消すべきなのか

 

そもそも、新しい時代などと言うのが本当に訪れているのか?(抜粋

新しい状況は生まれている

今までにない新たな人と人との繋がり方が起きており、技術と人、機会と人との出会いもバリエーションは増えたはずだ

変化は起きている

起きているはずだ……

それでもなお強力な発信者が増えるに至らないのは、実は需要の部分に問題であって時代の変化とは余り関係がないということになる

 

 新しい状況が生まれても、受け手側が言うほど変わっていないならそこまで変化したものは要らないわけだ……

人気Vtuberの放送でやっていることが基本的にTVの芸人の放送の若干のバリエーション変化くらいでしかないこともそこにある

(勿論、Vという皮を被ることで心理的な溝を越えてそういったことに割と気軽にチャレンジできる人が増えたというのはとてもよいことである)

(需要の高まりから来る技術の革新も見逃せない)

(彼ら同士がバーチャルワールドで、現実では出来ないことを体験していくというのは結構重要な部分であると思うが)

 

映像(動画)という情報伝達の方法

これが現状最も強い

人によっては音やらイラストやら文字やら色々あるとは思いますが、映像は全部兼ね備えている(要素を減らしたほうが強く伝わる部分もあるのは事実

 

ここが変わらない限り劇的な核心はないのではないか?

ニュータイプ的な何か……がいいとはあまり思わない

 

 

人間の受容感覚が変わらないのであるならば、現状を揺さぶるのは社会の方であるといえる

情報とは、それをどれだけ物体から切り離して考えようとも現実に左右される部分の方が大きい

データが一人歩きすると言うのは良くあることだが、それが歩くためには受け手が必要なのだ

発信するためには受け手の需要が不可欠だ

この部分を間違えると、割の悪い運頼みにしかならない

 

結局攻めるべきは社会の方である

必要こそが事態を動かす

必要と言ったが、不要もまた同じだ

実際大手新聞社はそこそこ追い込まれている、可哀想ではあるがが可哀想でもない

広告がシフトしきってしまうと彼らは維持できなくなる

まあ現に不動産で儲けてるところもあるがそれが続くのもそう長くはあるまい

 

広告の方から崩壊する可能性は高い

そちらが注目点とも言える

ページに載せるタイプの広告は読者の嫌悪感を催すことも多くリスクも極めて高いからだ

最終的にどうなるか、それはまだ分からない